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「ヘンリー4世パート1」三日目・舞台稽古
3週目は,和訳と本読みを終えて、いよいよ立ち稽古。いつもと違って、舞台を黒板向きに設定しました。このほうが舞台の横幅が大きくなり、観客に向かうスペースが広くなります。なんとなく現実の舞台に近い感覚です。
フォルスタッフが、ギャッツヒルというロンドン郊外の夜道で、商人を襲って金を奪う . . . はずだったのですが、ハルとポインスの悪知恵で、まんまと彼らに金をせしめられ(二人は覆面をしているので、フォルスタッフらには面が割れていません)、フォルスタッフは、とぼとぼイーストチープの飲み屋まで歩いて帰ってくるというお話です。当のハルとポインスは、先回りして飲み屋でくつろいでいて、いかにフォルスタッフが大恥をかいたことの言い訳をするか、手ぐすね引いて待ち構えています。
「舞台」には酒場らしくテーブルを置き,椅子をたくさん用意しました。エキストラが好きなところに座ります。
この場の見せ所は、いかにフォルスタッフが多勢の敵に対して獅子奮迅の戦いを挑んだという大嘘をいかに演じるか、そして最後に嘘がばれて事実を突きつけられて、どうやって言い訳を捏造するかです。当然、戦いの模様を報告するところでは興奮して、最初2人だったはずの敵が5人となり,7人となり、ついには11人にまでふくれあがります。この流れがごく自然で、ファルスタッフのキャラクターとマッチしていて、フォルスタッフを演じる役者の見せ所です。
帰り道に自分でつけた傷を見せびらかしたり、石に叩きつけてボロボロにした刀を客の目の前に突き出したりする、そのたびにエキストラの方に「オー」とか「アー」とか歓声を上げてもらいました。フォルスタッフが反応にヒートアップして、どんどん話が誇張され、ノリもどんどんよくなる過程がうまくアンサンブルとして表現できたと思います。
考えてみれば,大人数の役者が一度に舞台にいるという経験はみなさん初めてのはずです。今までは,多くて3〜4人でしょうか。声をあわせて「アー」とか「オー」とか「イェー」とか言うことは、結構楽しいものです。次に何が起るかあまり気にしないで、リアルタイムで、即興で間の手を入れるのは、舞台の上の役者の気持ちを一つにします。アンサンブル・ワークの真骨頂です。一人の独白,二人のダイアローグも面白いのですが、芝居の大きな魅力はアンサンブル・ワークにあります。「個」が埋没し、「全体」のなかに解放される感覚は,一度経験したら病みつきになること請けあいです。日常生活、なにかと個人で考え,決断し,行動することが多いのですが、舞台の上ではピュアな形で集団を自発的に形成できます。英語で言えば "belong"という、共生(ときには「共犯」)のネットワークの中で「私」は気持ちよく消えて行きます。
そもそも、人はどうやって「自己」「私」を見つけるのでしょう。難しい問題ですが、この頃、まず「他者」「他人」という軸がなければ「私」という概念もないのじゃないかと思っています。まず「私ありき」ではなくて。他者がいて,「人々」がいて、その「自分ではないもの」が引き出してくれる無数の「ミニ私」の集合が「私」なのじゃないかとすら考えています。人間って、根本的に他力本願なのではないでしょうか。独りでやれることは,たかがしれてます(こんなこと言ったら怒られるか)。「他者」という鏡に映って、初めて発見される「私」もあっていいのじゃないでしょうか。個人から集団へではなく、集団から導きだされる私。演劇の一人芝居は、根本的に面白くないと思います。演劇では,すべての行動は "reaction"だと思っています。これもまた怒られるか。
2012-05-13 16:00
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春の講座、申し込み締め切りました
春の講座は申し込みを締め切りました。9人の方からご応募を頂きました。ちょっと多いかなという数字ですが、それでも少なすぎるよりいいですね。今回は本読みに時間がかかりますが、その点は皆さん多分ご承知の上で申し込みをされたと思います。その分、皆さんに役が回るのが遅くなりますが、ご勘弁あれ。最初の顔合わせが今から楽しみです。
17日に本を出しました。「折れた弓:シェイクスピア、ヘンリー6世3部作の起源」というタイトルです。札幌の亜璃西社という会社にお世話になりました。社長さんは藤短期大学の英文学科の出身でいらっしゃいます。打ち合わせで、すすきのにあるオフィスに伺うと、おいしいコヒーをいれてくれて、まわりに本や雑誌はあるは、話好きの編集長や社長がいるは、喫茶店代わりに使わせてもらいました。ときには、ゼミの学生の飲み会の時間まで暇つぶしをさせてもらいました。
よもやま話のなかで、狸広路の昔を知る社長さんによると、一昔は近くにストリップ小屋があって,昼に前を通ると、踊り子さんがひなたぼっこをしていたそうです。のどかですね。どんな格好でかは聞きそびれましたが。すすきの歓楽街は元来国道36号線の北側が中心で,時代とともに南下して、現在のように「すすきの」というと36号線の南が中心になったそうです。一昔のすすきのにタイム・スリップしたい衝動に駆られます。
そうそう、本の話ですね。実は、出版後にまともに本を読んでいません。怖いからです。編集者の方がしっかりチェックしてくれて、私も眼を皿のようにして誤字、脱字を捜しましたが,そこは人間のすること、間違いは必ずあります。もう校正の機会のない今,もし間違いがあったら!怖くて、まともに読めません。
論文として、5年に渡って単発で発表したもを「です、ます調」に書き換え、イントロとエピローグを書き足しました。一般読者のためとはいえ,内容はかなり専門的なので、文体を親しみやすくしても限りがあります。今度はぜひ始めから一般読者層を頭に置いたシェイクスピアの本を書きたいですね。10年間の仕事の区切りがやっとついたので、今は新しいテーマ探しの段階です。流れからいうと「リチャード3世」なのですが、それだけで1冊というのは、なにがなんでも無茶ですね。といって「リチャード3世」は捨て難いし。悩んでます。
2012-04-21 16:36
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2012春社会人講座「シェイクスピアをしゃべろう」募集要項
社会人オープン講座「シェイクスピアを英語でしゃべろう」
2012年度春の講座募集要項
(2)資格 学生(中・高校生、大学生、専門学校生など)を除く社会人が対象です。退職なされた方、主婦の方も歓迎です。できるだけ幅広い年齢層の方が応募してくださると助かります。演劇の経験の全くない方を対象にしていますので気楽に参加してください。
(3)時間、場所、回数など 1講座は6週間からなり、毎火曜日に1回90分の授業をゼミ形式で行います。時間は午後6:00〜7:30、場所は藤女子大学16条キャンパス556教室を予定しています。今回募集の秋の講座のスケジュールは次のとおりです。
4月24日(火) 5月1日 8日 15日 22日 29日
(4)定員 10人程度。応募者が多いときは性別、年齢などをもとにバランスを考慮して選抜します。
(4)定員 10人程度。応募者が多いときは性別、年齢などをもとにバランスを考慮して選抜します。
(5)料金 無料です。
(6)申し込み・問い合わせ 申し込み締め切りは4月17日(火)です。同日必着とします。葉書かEmailで受講希望の旨を書き、必ず姓名、現住所、電話番号、 Email アドレス(ある場合)、性別、年齢を書いて、下記に送ってください。
(6)申し込み・問い合わせ 申し込み締め切りは4月17日(火)です。同日必着とします。葉書かEmailで受講希望の旨を書き、必ず姓名、現住所、電話番号、 Email アドレス(ある場合)、性別、年齢を書いて、下記に送ってください。
郵送の場合 001—0016 札幌市北区北16条西2丁目 藤女子大学・文学部 英語文化学科 平松哲司研究室
Emailの場合 hirmtsu@fujijoshi.ac.jp 平松哲司
お問い合わせは、TEL 011-736-5329、平松研究室までどうぞ。不在の場合はお許しください。
受講者に選ばれた方には受講票を郵送します。受講票の発送をもって受講資格認定の通知とします。受けつけ締め切り後4日くらいたって通知がない場合は選抜にもれたとご理解ください。受講票は大学建物に入るパス代わりになりますので、毎回大学玄関の受付に提出してください。
2012-03-08 13:14
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春の講座はフォルスタッフ
フォルスタッフは有名なキャラクターなのにもかかわらず、意外と読んだ人は少ないのではないでしょうか。理由は「史劇」だからだと思います。ヘンリー何世とか、リチャード何世とか、芝居の名前だけで敬遠したくなる心理はよく分かります。史劇は確かにとっつきにくいところがあります。昔々のイギリスの政治や戦争の話、これだけでなにか面白くなさそうです。
もう一つフォルスタッフが縁遠いのは、言葉の問題です。フォルスタッフの登場する「ヘンリー4世パート1&2」は二つの世界を含んでいます。一つは王侯貴族の政治と戦争の世界。今ひとつはプリンス・ハルとフォルスタッフの活躍するロンドン下町イーストチープの世界。このイーストチープの飲み屋や女郎屋の言葉が我々にはひどく難しいのです。この世界の住民の言葉はいわゆるストリート・ラングエッジで、ロンドン子の生の言葉です。スラングあり、符丁あり、隠語あり、流行語あり,なまりあり、とにかく読むのに苦労するのです。故安西徹男先生が「ヘンリー4世は本当に嫌だ」(無論大好きなことを前提に言っているのですが)おっしゃっていたのを今でも覚えています。とにかく、たくさんの脚注がないと、なにがなにやら分からないのです。
これを春の講座でとりあげようというのですから、それはそれなりの理由がなくてはいけません。「ヘンリー4世パート1」2幕4場を読もうと思っています。非常に長い場で、5週間で終るかというくらいです。しかし、この場、シェイクスピアのすべての劇の「場ベスト10」、いや、もしかしたら,「ベスト5」に入るかもしれません。そのくらい中身の濃い,読めば読むほど味の出てくる素晴らしい場です。
このゼミでとりあげなかったら,まず皆さんはこのシーンを経験する機会はないと思います。よほどのシェイクスピア好きを除いて。訳読に時間がかかると思われるので,立ち稽古の時間は少なくなると思います。今までのゼミで、最も大学院ぽい、ひたすらテクストと格闘する授業になると思います。それもまた一興、それなりの楽しみがあるでしょう。
じきに応募要項を掲示しますので,見逃さないようにお願いします。
2012-02-29 22:47
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今年初のアップデートは「声」
今年初めてのアップデートは "interiority"と「声」の話題です。もともと人間の声というものに興味をもっていました。文字にした言葉だと同じなのに,違う人間がしゃべるとそれぞれ違ってくる。大声,小声,ウィスパー、ハスキーなしゃがれ声,怒鳴り声,泣き声,男の声、女の声、嘘を言う声、なさけない声、懇願する声、みなトーン(音色)やリズムの問題です。眼の不自由な方は顔で人を判断できない分、人の声には恐ろしく敏感で,言葉の裏に潜んで,淀んでいる複雑な感情を直裁に言い当てることができるようです。言葉は嘘をつくかもしれないが,眼と声は嘘を言いません。なぜなのか。どうして「声」は我々の新奥の感情,情動をストレートに反映してしまうのか。
別なケースで、吃音や他の障害のため,思いを口にできない人がたくさんいます。専門の医師によると,多くの場合発声器官に問題があるのではなく、心理的、身体的理由によるのだそうです。言葉が思うように声にならない,このフラストレーションは大変なもので,その鬱屈した不満,焦燥,怒りは外に放射されることなく、内圧だけが高まって、ついには身体の外的不具合にまで発展してしまいます。猫背になったり,首が曲がったり、筋肉が硬直してひどいコリになったり。
こうしたときの医師のアドバイスは「体を開く」ことだそうです。ふと思い当たったのが,これはシェイクスピアのゼミで(社会人も大学生も)私がしょっちゅう言っていることなのです。難しい英語のテクストに集中するあまり,いつの間にか体が硬直し,人の前で演技しているという緊張感,自意識にがんじがらめになって,体が世界に向かってオープンになっていないのです。体が閉じてしまっているのです。間違わないでしゃべることに意識が傾きすぎて,喉や舌、口蓋全体、唇に妙に力が入って,そこに気持ちが異常に集中してしまいます。
よく考えれば、これは日常のおしゃべりでは起こりえません。友達とリラックした環境で話しているとき,声は身体全体の反響板のように、体のリズムやフィーリングなどを素直に言葉にしてくれます。声は大事だけれど,身体という全体のやはりパートに過ぎないのです。声が無理な緊張をすると、それが体の内部にフィードバックされ、健全であったはずの"interiority"(内部性、深奥感覚)が「おっ、なにかおかしいぞ」と、緊張の伝染にかかってしまいます。外部からの脅威や危険がないにも関わらず、我々の"interiority"は身構えて,緊急モードにスィッチしてしまいます。ちょうど原始の人間が虎に出会って、脱兎の如く逃げなくてはいけない、そういう身体状況に心がのっとられてしまうのです。ウィリアム・ジェームズと言う心理学者が言ったことですが,顔が恐怖の表情をすると、べつに恐れるべきものが周囲にないのに,人は恐怖を感じ,そして可笑しくもないのに,笑いの表情を作ることで心がハッピーになる面も確かにあるのです。感情は身体の中からも,そして表面からもトリガーされるのです。
「声」はこの "interiority"からのメッセンジャーというのが今回のポイントです。そもそも「内部」というのは見られません。見たとたんそれは「内部」であることをやめます。口は確かに人間の内部の開口部です。しかし、そこから胃カメラのスコープを奥に突っ込んでみても,見えるのは果てしのない「外壁」です。"Interiority"はまだ壁の向こうにあります。別の例を引くと,梱包されたダンボールの箱。中が空か,なにか入っているか、箱を破ってみなければ分かりません。破った箱にもう「内部性」はありません。音はその点視覚と異質です。箱を手で叩けば,中が空洞であるかはだいたい見当がつきます。
この「音」が "interiority"を垣間見るキーワードなのです。「声」は、内蔵系の蠕動,リズム、血液の流れ、そしてそこからわき上がってくる「原意識」「核意識」の情動を知らせてくれます。風で熱があるとき、疲れがたまっているとき、症状は如実に声に現れます。「あっ、風邪かな」という予兆を、我々はわずかな声の変調で知ります。人間は意識を高度化して、個人化し,洗練させました。しかし内蔵の声を反映する生物としての「核意識」はその下にいつもうごめいています。それがなければ、深奥から噴出してくる情動も、欲望もありません。まず健康な動物になるべきでしょう。動物は声を出すとき,人間のように自意識の呪縛に苛まれることはありません。あくまで自然体だからですから。
よく演技の指導で「意識の中心を腹におろせ」と言います。今考えれば箴言で,頭と脳に昇った血を身体の「原意識」の中心におろせということです。結局座禅の効果も同じことでしょう。そうしさえするば,発声器官は本来のパーツとしての役に専念でき、"interiority"を映し出す鏡になってくれるのです。もっと散文的に言うと,声で役づくりをするな、体全体で役作りをしろ、ということなのでしょうか。それができさえすれば,声はあとからついてきます。
2012-01-22 22:54
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秋の「オセロ」講座無事終了
お蔭さまをもちまして、秋の講座も無事終わりました。今回は受講者5人と少数でしたが,それだけ役が早く回り,皆さん満足度は高かったのではないでしょうか。当たりすぎ、という嬉しい悲鳴もあったでしょうか。打ち上げのハンバーグもおいしかったし,このくらいの人数の方が話が一つにまとまって、面白い話しがたくさん聞けました。分類ゴミ収集の「雑紙」の定義もやっと分りました。ゴミ箱はやはり6つ必要なのですね。
人数が少ないと,自然と雑談に花が咲き,特にエミリア(ヒロインのデズデモーナの侍女)のキャラクターにはいろいろと面白い解釈が聞けました。いわゆる「プロファイリング」というやつで、アメリカのいわゆる "method acting"の役者が力を入れるところです。たとえば、連続殺人鬼の役が決まったら,刑務所に赴いて、実際に連続殺人で服役中の囚人にインタビューして、生まれ育ち,性格,家庭環境、さまざまなアングルから、「動機」を探っていく方法です。FBIでも犯人割り出しのためにやっています。
いったいエミリアとはどういう女性なのか?特に、観客の前で「もし女が間違いを犯したら,それはそうしむけた夫が悪い。妻はただ夫の浮気に泣き寝入りするわけにはいかない。私たちにだって欲望もあり,遊びたい気持ちもある」と言って,当時の女性観客の喝采を浴びた台詞を吐くわけですから。年齢は40歳代くらいでしょうか。そのくらい行っていないと、言葉に説得力がありません。デズネモーナが20前後だとしたら(ティネイジャーであってもおかしくないのですが)、自分の娘のように彼女をかわいがっていたと思います。この辺まではみなさん一致しているのですが,ここから先になると、かなりそれぞれの方が違うイメージを持っているようでした。私は、エミリアを普通の市民の家庭で育って(もしかしたら田舎で)、日本でいう女中奉公でヴェニスの裕福な商人のブラバンシオ家に入ったと勝手にイメージしていました。受講生のある方は、若いデズネモーナに社交や一般的教養を教えることが出来るだけの知的洗練に恵まれた,ある程度身分の高い家の出であると想像しておられました。これもありでしょうね。当然あまりハスッパな言葉は使わないし,衣装,振る舞いもかなり上層階級の "matron"という感じなのでしょうか。
いずれにせよ,今回エミリアの「私たち女だって、男同様,叩かれば痛いし,やさしくしてもらえば嬉しいし,欲望だってあるし,遊びたい心もあるし」うんぬんの台詞を読んで,なぜか「ヴェニスの商人」のシャイロックの「私たちユダヤ人にも血は流れていませんか?切られたら痛くありませんか?感情だってありませんか?裏切られたら復讐しませんか?」という台詞のエコーのようなものが聞こえて仕方ありませんでした。はたと気がついたのは、ひょっとして、当時のエリザベス朝の社会ではユダヤ人も女性もマイノリティーの悲哀を感じていたのではないでしょうか?ユダヤ人はエスニックな異邦人、女性は聖書のイヴから始まる中世の長い anti-feminism の蔑視の視線に耐え続けてきた恨み、つらみが庶民の中でくすぶっていたはずです。そこにシェイクスピアはターゲットをしぼって、このエミリアの声を借りてその声にならぬ声を代弁したものと考えられます。
今回のゼミで話題になったのは、テクストを音読することと、「演技する」ことを同時進行させることの難しさです。役者さんはもう台詞を覚えているので,役に没頭して,身体を開放することができます。しかし我々のレベルでは、片手に必ずテクストを持ち,そこから目を離さず、次々と続く台詞を読み続けなくてはなりません。苦手な子音や母音,私に注意されたパッセージのリズム、その他もろもろの「劇場外」の難題を抱えて対処しながら「読む」ことで精一杯です。そこに私の駄目だしで,「ああ、ここはエミリアは仕事をしながらしゃべってください。寝室の壁すべてに大きな窓があって,夜になったのですべてのカーテンを閉める,それが終わったらベッドやタンスを往復する。とにかく、デズデモーナの床入りの準備に追われてください」と求められる。ここでみなさんパニックに陥る。テクストと格闘するだけで精一杯なのに,なぜこの男はそんな無理なことを要求するのか。しかもずぶの素人に!結果は、やはりテクストから目を離さず,足が固定されて動かず,いすを片づけている「つもり」なのでしょうが,ちっともそうは観客に分らない。つまり、頭と身体がバラバラで、二つが日常生活でのようにシンクロナイズしていないのです。家庭でお掃除をしながら、TVをみている夫に世間話をするという「〜ながら話す」ということが恐ろしく難しいのです。
これは、私も演技をかじった初期の段階で一番もどかしかったことです。故安西先生の駄目だしで一番きつく,今でも鮮明に覚えている言葉は,「平松は oratorだな。Actorじゃない」です。つまり、英語の発音,リズム、イントネーション、さらに感情性には、お恥ずかしながらちょっとは自信があったのですが,それは頭だけでできることで、頭の下の身体が死んでいる,言葉とシンクロナイズしていない、だから "Actor"(行動する人、身体で表現する人)ではないという意味です。この指摘は,薄々自分でも感じていたことで、できるだけ見ないようにしていた部分なので,「あー、やっぱりばれてたんだ」と悟りました。しかしこの叱咤に奮起して,私は以後、脳と身体を演技の中で一体化させるかというテーマを与えられ、新しい到達点が見えました。
とはいえ、やはりシェイクスピアは台詞劇です。「音」「声」が出発点になるのはごく自然でしょう。そこでハムレットの旅役者に対するアドバイスを引きます:"Suit the action to the word, the word to the action."「体は言葉にあわせて,言葉は体に合わせて」この相乗作用の永遠のつながりが演技というものなのでしょうね。
人数が少ないと,自然と雑談に花が咲き,特にエミリア(ヒロインのデズデモーナの侍女)のキャラクターにはいろいろと面白い解釈が聞けました。いわゆる「プロファイリング」というやつで、アメリカのいわゆる "method acting"の役者が力を入れるところです。たとえば、連続殺人鬼の役が決まったら,刑務所に赴いて、実際に連続殺人で服役中の囚人にインタビューして、生まれ育ち,性格,家庭環境、さまざまなアングルから、「動機」を探っていく方法です。FBIでも犯人割り出しのためにやっています。
いったいエミリアとはどういう女性なのか?特に、観客の前で「もし女が間違いを犯したら,それはそうしむけた夫が悪い。妻はただ夫の浮気に泣き寝入りするわけにはいかない。私たちにだって欲望もあり,遊びたい気持ちもある」と言って,当時の女性観客の喝采を浴びた台詞を吐くわけですから。年齢は40歳代くらいでしょうか。そのくらい行っていないと、言葉に説得力がありません。デズネモーナが20前後だとしたら(ティネイジャーであってもおかしくないのですが)、自分の娘のように彼女をかわいがっていたと思います。この辺まではみなさん一致しているのですが,ここから先になると、かなりそれぞれの方が違うイメージを持っているようでした。私は、エミリアを普通の市民の家庭で育って(もしかしたら田舎で)、日本でいう女中奉公でヴェニスの裕福な商人のブラバンシオ家に入ったと勝手にイメージしていました。受講生のある方は、若いデズネモーナに社交や一般的教養を教えることが出来るだけの知的洗練に恵まれた,ある程度身分の高い家の出であると想像しておられました。これもありでしょうね。当然あまりハスッパな言葉は使わないし,衣装,振る舞いもかなり上層階級の "matron"という感じなのでしょうか。
いずれにせよ,今回エミリアの「私たち女だって、男同様,叩かれば痛いし,やさしくしてもらえば嬉しいし,欲望だってあるし,遊びたい心もあるし」うんぬんの台詞を読んで,なぜか「ヴェニスの商人」のシャイロックの「私たちユダヤ人にも血は流れていませんか?切られたら痛くありませんか?感情だってありませんか?裏切られたら復讐しませんか?」という台詞のエコーのようなものが聞こえて仕方ありませんでした。はたと気がついたのは、ひょっとして、当時のエリザベス朝の社会ではユダヤ人も女性もマイノリティーの悲哀を感じていたのではないでしょうか?ユダヤ人はエスニックな異邦人、女性は聖書のイヴから始まる中世の長い anti-feminism の蔑視の視線に耐え続けてきた恨み、つらみが庶民の中でくすぶっていたはずです。そこにシェイクスピアはターゲットをしぼって、このエミリアの声を借りてその声にならぬ声を代弁したものと考えられます。
今回のゼミで話題になったのは、テクストを音読することと、「演技する」ことを同時進行させることの難しさです。役者さんはもう台詞を覚えているので,役に没頭して,身体を開放することができます。しかし我々のレベルでは、片手に必ずテクストを持ち,そこから目を離さず、次々と続く台詞を読み続けなくてはなりません。苦手な子音や母音,私に注意されたパッセージのリズム、その他もろもろの「劇場外」の難題を抱えて対処しながら「読む」ことで精一杯です。そこに私の駄目だしで,「ああ、ここはエミリアは仕事をしながらしゃべってください。寝室の壁すべてに大きな窓があって,夜になったのですべてのカーテンを閉める,それが終わったらベッドやタンスを往復する。とにかく、デズデモーナの床入りの準備に追われてください」と求められる。ここでみなさんパニックに陥る。テクストと格闘するだけで精一杯なのに,なぜこの男はそんな無理なことを要求するのか。しかもずぶの素人に!結果は、やはりテクストから目を離さず,足が固定されて動かず,いすを片づけている「つもり」なのでしょうが,ちっともそうは観客に分らない。つまり、頭と身体がバラバラで、二つが日常生活でのようにシンクロナイズしていないのです。家庭でお掃除をしながら、TVをみている夫に世間話をするという「〜ながら話す」ということが恐ろしく難しいのです。
これは、私も演技をかじった初期の段階で一番もどかしかったことです。故安西先生の駄目だしで一番きつく,今でも鮮明に覚えている言葉は,「平松は oratorだな。Actorじゃない」です。つまり、英語の発音,リズム、イントネーション、さらに感情性には、お恥ずかしながらちょっとは自信があったのですが,それは頭だけでできることで、頭の下の身体が死んでいる,言葉とシンクロナイズしていない、だから "Actor"(行動する人、身体で表現する人)ではないという意味です。この指摘は,薄々自分でも感じていたことで、できるだけ見ないようにしていた部分なので,「あー、やっぱりばれてたんだ」と悟りました。しかしこの叱咤に奮起して,私は以後、脳と身体を演技の中で一体化させるかというテーマを与えられ、新しい到達点が見えました。
とはいえ、やはりシェイクスピアは台詞劇です。「音」「声」が出発点になるのはごく自然でしょう。そこでハムレットの旅役者に対するアドバイスを引きます:"Suit the action to the word, the word to the action."「体は言葉にあわせて,言葉は体に合わせて」この相乗作用の永遠のつながりが演技というものなのでしょうね。
2011-11-14 16:21
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2011年度秋の社会人オープン講座募集要項
お暑うございます。秋の社会人ゼミの募集要項を掲載します。ほかに候補は「リチャード3世」があったのですが、女性が出る場所が少なく、女性の台詞もはえるものがないので、残念ながらあきらめました。この芝居はやはり男性中心ですね。「オセロ」ならデズデモーナとエミリアという大きな女性のキャラクターがいて、特に二人のいわゆる「柳の木の場」は圧巻です。お楽しみに。多くの方の参加をお待ちしています。
社会人オープン講座「シェイクスピアを英語でしゃべろう」
2011年度秋の講座募集要項
(2)資格 学生(中・高校生、大学生、専門学校生など)を除く社会人が対象です。退職なされた方、主婦の方も歓迎です。できるだけ幅広い年齢層の方が応募してくださると助かります。演劇の経験の全くない方を対象にしていますので気楽に参加してください。
(3)時間、場所、回数など 1講座は6週間からなり、毎火曜日に1回90分の授業をゼミ形式で行います。時間は午後6:00〜7:30、場所は藤女子大学16条キャンパス556教室を予定しています。今回募集の秋の講座のスケジュールは次のとおりです。
9月27日 10月4日・11日・18日・25日 11月1日
(4)定員 10〜15人程度。応募者が多いときは性別、年齢などをもとにバランスを考慮して選抜します。
(5)料金 無料です。
(6)申し込み・問い合わせ 申し込み締め切りは9月20日です。9月20日必着とします。葉書かEmailで受講希望の旨を書き、必ず姓名、現住所、電話番号、 Email アドレス(ある場合)、性別、年齢を書いて、下記に送ってください。
郵送の場合 001—0016 札幌市北区北16条西2丁目 藤女子大学・文学部 英語文化学科 平松哲司研究室
Emailの場合 hirmtsu@fujijoshi.ac.jp 平松哲司
お問い合わせは、TEL 011-736-5329、平松研究室までどうぞ。不在の場合はお許しください。
受講者に選ばれた方には受講票を郵送します。受講票の発送をもって受講資格認定の通知とします。受けつけ締め切り後4日くらいたって通知がない場合は選抜にもれたとご理解ください。受講票は大学建物に入るパス代わりになりますので、毎回大学玄関の受付に提出してください。
2011-08-11 14:45
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Ben JonsonのVolpone: at the Greenwich Theatre, England
面白いDVDを観たので早速ご報告します。Ben JonsonのVolponeという喜劇で、前にご紹介にしたロンドン郊外のグリニッチ・シアターの舞台にかかったもののDVDです。ウェブスターの「マルフィ公爵夫人」とレパートリー制で公演されたようで、役者のインタービューでは二つの劇を違う役で演じることが楽しそうに、あるいは苦労談として語られています。この「ヴォルポーネ」のDVDは、Amazon UKで前に見つけて二回も取り寄せたのですが、ディスクの不具合で二回とも返品したといういわくつきです。もういいや、とあきらめていましたのですが、なぜか半年立ってもう一度、という気持ちになって、三度目の正直、見事に観られました。しかもインタビューの一枚、固定カメラでの「マスター・ショット」、そして本体という超お買いどく!待てば海路の日和ですかね。
実は私「ヴォルポーネ」の上演を観るのは今回始めてです。ジョンソンの芝居では最も好きなものなのですが、残念なら今まで舞台でも映画でも観たことがありませんでした。今考えれば、だから垂涎物で三度もオーダーしたのでしょうね。
オープニングから吸い込まれるように食い入りました。こういうのは久しぶりです。大富豪、大詐欺師ヴォルポーネが、朝の目覚めに、貯めに貯めた黄金、宝石、真珠、珊瑚に、あたかも観音様を拝むように祈りを捧げるシーンです。まさに人の金欲、物欲の業の深さをテーマにしたこの喜劇の基調となる大事な場面です。ここにはシャイロックの "moneys"の貨幣経済のしみったれた、暗い「金貸し」のイメージは薬にしたくてもありません。すべては山のように積まれた黄金(あくまで比喩です)の目のくらむような輝きと「荘厳」に包まれていて、富の偶像に人は思わず膝を屈したくなります。そんな倒錯した、でも「わかるなー」という吐息が出るのです。どんな調子なのか、ちょっと引用してみましょう。
Good morning to the day, and next, my gold.
Open the shrine, that I may see my saint.
(Mosca reveals the treasure)
Hail, the world's soul. and mine. More glad than is
The teeming earth, to see the longed-for sun
Peep through the horns of the celestial Ram,
Am I, to view thy splendour, darkening his.
. . . O, thou son of Sol,
But brighter than thy father, let me kiss,
With adoration, thee, and every relic
Of sacred treasure in this blessed room. . .
Thou being the best of things, and far transcending
All style of joy, in children, parents, friends,
Or any other waking dream on earth.
延々とこの調子で続くのですが、感じはお分かりになると思います。完全な宗教礼拝のパロディーというかパスティーシュです。これだけ開けっぴろげの金欲礼賛ができたのも、芝居のロケーションが「偶像崇拝」の本拠カトリックのヴェニスであるからです。でも本当はロンドンであることは観客は百も承知なのですがね。市民喜劇はシェイクスピアの苦手としたところで、あまり興味が無かったようにも見えます。しかし市民喜劇は以降近代喜劇の主流になり、 ヴォルポーネの台詞はモリエールの「守銭奴」にさらに展開していきます。
ヴォルポーネを演じたのはRichard Brommerという役者で、歳の頃は60代、ひょろ長い体格で、長い髪の毛をオールバックにしています。真っ白のスーツ姿でなかなかかっこよい。最初の場で大きく両手を上げたところがきまっていて、すぐに「あ、ヴォルポーネらしい」と感じました。「ヴォルポーネ」は副題が「狐」と言い、金銭欲の亡者ですが、主義というかスタイルというかがあって、貧民から金を巻き上げることはせず、ターゲットは欲の皮の突っ張った弁護士、商人など裕福な階層の人間です。巧みな詐欺行為で彼らに金を貢がせるという、そのスリルに人生の喜びを見いだしている老人です。Brommerは役者のキャリアが長いのでしょう、台詞を巧みに操るのには大変たけています。速いスピードで淀みなく台詞をしゃべる技巧に走らず、Blank Verseのリズムを大切にして、むしろゆっくりしゃべってくれて、キーワードが言葉の流れの中から自然とポッ、ポッと浮かび上がって、長い台詞でも、スタッカートのようなスピード感のある会話でも、言葉がおろそかになることはありません。大した「わざ」です。特に見所は、大道の薬売りに化けて、トラさんそこまけの香具師の口調で怪しげな薬を売る場面です。二階のバルコニーにいるお目当ての女性シーリアの気を引くのが目的ですが、話芸は聞く人を放しません。
この芝居については書きたいことがたくさんあるので、次回パート2で続けます。
2011-07-11 09:34
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King Lear1幕4場の本読み
「リア王」のフール(道化)は本当に不思議な存在です。子供のようでもあり、年寄りのようでもあり、年齢不明です。もしかしたら女性が演じてもおかしくありません。私は個人的にはひょっとしたら人間ではないのではと思っています。あまりにも人の心が読め過ぎるのです。リアに対しては本当に痛いところをどんどん突いてきます。賢いのか、馬鹿なのかよく読めません。いわゆる "Idiot Savant"のような、脳に異常があって知能が低いが、ある一つのことに関しては超人的な才能を持っている子供を思い出させます。例えば、数式の答が直感的に「見える」とか、一度チラっと見ただけで風景をそっくりそのまま素描で再現してしまう子供とか。
フールは1幕2場で "Let me hire him too"と突然飛び出して来て、以後リアと行動をともにして、一緒にリアの娘の家から追い出され、嵐の荒野でずぶぬれになりながらもリアから離れようとせず、ほったて小屋で錯乱したリアがうとうとと眠りに入ろうとして、"Make no noise, make no noise; draw the curtains. So, so. We'll go to supper in the morning" と言うと、それに "And I'll go to bed at noon"と答えるのを最後に、二度と舞台に現れません。その後の消息は全く聞かれません(死の直前のリアの "And my poor fool is hanged"がコーディリアでなくフールのことを指しているなら別ですが。この可能性はあり得ないと私は思っています)。半分冗談ですが、フールは実は宇宙人なのかもしれません。いわゆるETです。ひとえにリアの目を醒させるため、リアを見捨てないためだけに人間の姿を借りて、目的を果たすと静かにどこかの星に帰っていってしまう、そんな印象が頭を離れません。
舞台で役者がシェイクスピアのキャラクターを演じると、役者の体や表情や声を通して、テクストでは見えなかったものが見えて毎回勉強になります。ただフールに関していうと、いろいろなプロダクションで違うフールを観ていつも感じるのは、フールの「宇宙人」としての抽象性が年齢、性別など人間につきものの具体性によって損なわれて、いつも不満が残ることです。これが理不尽な不満なのは承知しています。人間が演じるのですから、なんらかの肉体的限定が加わるのは必然です。この当たり前のことがシェイクスピアのほかのキャラクターの場合はプラスに働くのですが、ことフールに関してマイナスに働いてしまうのです。まことに勝手な思い入れで、フールをやる役者さんにとってはいい迷惑ですね。
よくリア王は舞台には大きすぎるという説が聞かれます。とくに嵐の荒野の場面の宇宙的なまでに大きな世界は、現実に役者が舞台で表現するには大きすぎるという意見です。特に19世紀ロマン主義の批評家が言ったことです。私はそうは思いません。荒野の嵐のすさまじさと雷鳴のとどろきでリアの台詞がかき消されてしまうこともままあるでしょうが、観客の想像力の中でこそ真のリア像が浮かび上がると信じています。ただ、この「舞台には大きすぎる」というのは、むしろフールに当てはまるのではないかという個人的印象を持っています。彼の抽象性、得体の知れなさが、現実の舞台で具現化されしまうのがとても残念なのです。無い物ねだりでウィルにも申し訳ないのですが、やはり私のフールは私の頭にしかないようです。
とはいえ、フールを演じるのはとても楽しいし、やりがいのあることです。最終回の立ち稽古では、ぜひ私も参加してフールをやらせてもらえたらいいなあと思っています(やらせてもらえますか?)。ゼミの皆様もそれぞれの個性を発揮したフールを見せてください。
2011-06-03 17:42
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[リア王」ゼミ2回目
昨日「リア王」の本読みを行ないました。この段階はとても大事です。立ち稽古に入ると、どうしても動きに注意が行ってしまって言葉がおろそかになります。ですから本読みでしっかり台詞の読み方を脳に叩き込む必要があるわけです。
今回は参加者9人、ちょうどいい人数です。リアの娘3人、リア、ケント、この5人の配役を90分という限られた時間で皆にやってもらうのは人数が多いと不可能です。
まずIさんがリアです。ケントは不肖私がやりました。ケントは大好きな役で、むずむずして仕方がなかったので、特別にやらせてもらいました。Iさんのリアはとても立派でした。スピードといい、息継ぎの場所といい、単語の発音の丁寧さといい、この段階では申し分ありません。途中で止めて、なにかを参考にしたのでしょうかとお尋ねしたら、主にジョン・ギルグッドの晩年のCDを聴いたということで納得しました。しかし聴くことと、そのよいところを自分のものにすることは別のことで、Iさんの勉強熱心、このゼミに対する意気込みには毎回脱帽です。
女性陣は皆さんある程度読み込んで来たようで、最初こそ少し萎縮していましたが、駄目だしを出され、違う役を演じるに連れて徐々に緊張がほぐれ、本来の調子が出て来たようで、これは来週が楽しみです。
来週はいよいよ立ち稽古です。アクションはほとんどないシーンなので、あまり立ち位置とか動きに惑わされず、台詞に集中すればおのずと動作も自然に生まれるでしょう。おしゃべりにの時間に話題になったのがコーディリアの性格です。父親が聞きたい言葉がわかっているはずなのに、その一言がいえない。それは彼女の純潔さ、ひたむきさを考えれば致し方ないのですが、でも "Nothing"はないだろうという気持ちはあります。彼女の潔癖さに、世間の波にもまれていない未熟なティーネイジャーの意固地を見ることも可能でしょう。演じる人の感じたままのコーディリアを作り出してもらえばいいのです。純粋で優しいコーディリア、凛としてしっかり自己主張するコーディリア、弱々しい声でしか父への愛情を語れない可哀想なコーディリア、そのほか色々なコーディリアが見たいものです。
2011-05-13 14:03
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